毎年この時期になると、
忸怩たる思いになる。
やらかしてしまった私を、
悔やみ、娘に心で詫びる。

『喜びだけくれる娘よバラ色の夏至の夕ぐれお前のえくぼ』


あまりにもよい子の娘に、こんな短歌を作っていい気になっていたものの、

私の母親としてのメッキがはがれたのは、高校受験の時だ。

第一志望に不合格になった。

信じられない、と思ったが、

その時にはまだ私にも理性があった。

第二志望の高校に不合格になった時に、

私の本性は顔を出した。

『何をやっているの。勉強していなかったの?』

親として言ってはならない言葉を娘にぶつけた。

二度も不合格になって、傷ついて倒れた子を、上から踏みつけにした。

勉強、してましたよ。

頑張ったのを知っていたのに。

私は娘を怒った。

娘はマシュマロみたいな頬に、伝っていく涙を、ぬぐおうともせずに下を向いていた。

娘が私と違うところは、静かなところだ。

黙って、私のぶつける怒りをただ受け止めるのだった。

あとから娘が話したことには、この時、『死んでやろうか』と思っていたのだという。

しかし、私の眼にはこう映っていた。

『なによこの静けさは・・・。この子には感情がないの。うるさいっ、あんな高校なんかいかない、とか、なぜ落ちたのかしら!どの問題を間違えたのかしら!とか何か感情が、ないの。悔しくないのが悔しいよ』

ほら、怖いでしょ。

私からは、感情がないと見えていたのに、

本人は死にたくなっているのだ。

この勘違い。

母親として、ありえない線を、平気で越えていた。
あぶないあぶない。
やらかしました。

怒りを感じている自分がおかしいのではなくて、『運命』のおかしさを嘆くばかりだった。

娘は、これまでずっと優等生できて、肝心な受験で涙を飲むなんて。

この『失敗』の原因はなんだったのかを考えた。

私は親として、そして娘も、『努力』が足りなかった。

他の人はもっとやっていた、ただそれだけのことだ、と結論付けて、

合格でお祭り騒ぎの保護者会で、私は必死で笑った。

心で泣いて、演技をした。

しかし、過ぎてみたら、悲しむことはこれっぽっちもなかった。
馬鹿なことをしたよ。

『それでよかった』。

『受かったところが良いところ』


これは、真実。
慰めじゃなくて、ほんとうにそうだったよ。

結果は結果だけど、がっかりしたら損だよ。

喜ぶのもいいけど、次の受験では泣くことだってある。

合格はもちろん飛ぶように嬉しいけれど、


究極、子どもの心の健康、純粋な感情が護られること以上に、

大切なことはない。


傷ついている子に追い打ちをかけてはならないのだ。

その時はわからない、運命があるの。絶対に、『失敗』じゃなかった。

娘は、いわゆる『滑り止め』に行ったからこその、

大学受験・就職の『成功』『正解』が手に入ったと言える。

別に自慢じゃないし、『成功』『正解』って何よって思うし、

これから先もどうなるかなんて、誰にもわからない。

要するに、合格でも、不合格でも、

どっちでもいい、子どもが幸せならってことよ。

悔しいとか、悲しい、というのは、ドラマなんですよ。
すてきな感情を味わわせてくれる、子育ての醍醐味ってこと。

どうかママさんたち、合格しても、

不合格でも、

『よく頑張ったね。おつかれさま』

だよ。お願いします。

合格が頑張った、不合格が頑張らなかったなんてことはない。
全力で頑張ったのはみんな同じ。

ほんとうに、みんな、お疲れ様、だよ!